前方後円墳の秘密

地理的に近い河内の弥生時代の方形周溝墓に関係がない前方後円墳は
外部勢力(九州でしょう)が大和盆地に入った時期(数回あるが3世紀頃)に、
河内の諸豪族に同化せず権力を集中させたと考えられますね。

わざと地理的に離れている播磨をベースに、
東海地方の豪族との婚姻を組み合わせて政治統合を進めたのではないでしょうか?
東海地方の方形周溝墓から発達した前方後円墳の方墳部と播磨の円形周溝墓の合体のことです。=前方後円墳の登場。
実際記紀には東海の尾張の娘が天皇家に嫁いだとありますね。

纏向と同じ時期(3世紀)に現れた
西播磨・北部九州・日向(宮崎)・阿波の前方後円墳は
方形部が通路のように細長く
方形部が発達した纏向の前方後円墳とは見た目が大きくちがうので
大和の前方後円墳と別物と考えております。

ところで3世紀頃と考えられる大和の崇神天皇は和名『みまきいりひこ』で
ミマキは福岡県にある地名です。
その息子の垂仁天皇の和名は『いくめいりひこ』で生目神社は宮崎県ですね。

弥生時代の畿内における円形周溝墓は播磨(神戸・豊中・摂津・茨木市)に多く、
一方方形周溝墓は河内(枚方・東大阪・八尾市)に多数存在しています。

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