古墳の登場(3世紀)

★弥生墳丘墓や周溝墓の盛土が巨大化し古墳が登場
①3世紀の巨大墳丘墓:
 (双方中円墳〔吉備〕・四隅突出型古墳〔出雲〕・前方後方墳〔東海〕)
②3世紀~4世紀の前方後円墳〔畿内・吉備・讃岐・阿波・北九州・南九州〕
③5世紀の巨大前方後円墳〔河内〕

3世紀頃の出雲の四隅突出墓は高句麗の部族の流民であった可能性はないでしょう。

魏志倭人伝・新羅本紀・三国魏志・高句麗本記のどこにも記述がないです。
また高句麗の墓と日本の墓では構造がまったく違いますね。
3・4世紀の日本は盛土・葺石 高句麗の墓は積石。
3・4世紀の出雲の四隅突出墳丘墓は四隅の低いところだけ積石と
盛土に石を貼り付けて壁を作る形です。
紀元前1・2世紀の三次や丹波(日吉が丘遺跡)は周りの淵に石を敷き詰めた形です。
北日本や長野阿久などの縄文中期・後期の縄文環状列石の影響ではないでしょうか。

また四隅突出墳丘墓は長方形で
3世紀前半の丹波の赤坂今井古墳も長方形でこの時期の最大です。
丹波の長方形墳丘墓は丹波が不老不死薬の探査の最終地であった秦の徐福一行が土着し
その後秦氏がこの地に入り力をつけていた可能性も無きにしも非ずですね。
(秦の始皇帝の墓も方墳です。)
この形が丹波から出雲に拡散し
広島県の三次盆地で突然変異し四隅突出型古墳が出来たのではないでしょうか。

ところで北朝鮮内陸北辺で発見されたといわれる
1~2世紀の古墳は正方形型ですべて積石・盛土はありません
2方だけが突出も含んでおり
出雲の四方突出墳丘墓と関係があるというのは捏造でしょう。

高句麗の積石墓は初期百済に伝わり5世紀頃の百済系渡来人によって
日本で一部導入されたと考えるほうが自然です。
長野・山梨・群馬の5・6世紀の積石古墳はこの流れではないでしょうか。

香川・徳島に3・4世紀の積石古墳がありますが
弥生時代の讃岐の集石墓(成重・稲木遺跡)の発展系でしょう。
成重遺跡からは洪水による砂の積層が見つかっています。
当時洪水が多かったこの地域で
独自に積石文化が発展したと考えるほうが自然です。

また高句麗の盛土の古墳は4世紀後半から5世紀です。
倭から高句麗に伝わった可能性もありますね。

結論は弥生の墳丘墓が巨大化した日本で
独自に墓の形が進化して古墳時代が始まったということです。

古墳時代は柵で囲った弥生式環濠集落が一斉に破棄され
人々が分散して平野に住み始めた時代です。
住民の安全が保障されたのでしょう。銅鐸も必要がなくなった。
首長が統廃合され領地が拡大し権力が集中し一時的に戦争が減ったのでしょう。
水稲稲作の拡大し人口が爆発したのではないでしょうか。
3世紀ごろクニの創成期は九州の邪馬台国とは別に
出雲と畿内で独自に形成されていたと考えられます。

前方後円墳が九州(北部・南部)・瀬戸内(阿波・吉備・播磨)・畿内
でほぼ同時に発生したのは九州の例えば物部などの豪族が古くから本州に移動しており
3・4世紀に各地の縄文の豪族と連携したからではないでしょうか。
半島情勢を知っていた九州部族はクニの形をととのえるために
畿内で前方後円墳を作り、各地の豪族に同じものを作らせ連携しながら
日本の統一を図ったのでしょう。
4世紀に半島では百済・新羅・高句麗体制となります。

5世紀の畿内の前方後円墳は
クフ王のピラミットや秦の始皇帝の墓より大きく
3~4世紀頃畿内の豪族が5世紀頃で非常に大きな権力をもっていたと
考えられます。特に巨大な大仙稜・誉田稜などは
九州勢力(応神大王など)の河内再上陸による政治統合などではないでしょうか。

ところで畿内のホケノの石囲木槨は辰韓=新羅の前身(3世紀)にも見られる形ですね。
木槨は楽浪郡から任那・新羅そして日本に伝わったのでしょう。
3世紀に倭は新羅にたびたび侵攻していますから
新羅の捕虜が畿内で製造に携わったものではないでしょうか。
または任那・百済には古くから倭人がいましたから日本に里帰りしたのでしょう。
馬韓(百済の前身)の周溝墓は北部九州〔弥生時代前期〕とほぼ同時。
紀元前3世紀頃の半島・華北動乱と関係があるのではないでしょうか?

古墳時代の半島の大きな動乱は下記の3つですが、
1.漢の楽浪郡の滅亡と百済・新羅建国時の4世紀
2.魏の帯方郡の滅亡の5世紀
3.百済・高句麗の滅亡時の7世紀
キトラ・高松塚の壁画は7・8世紀です。
3世紀にヤマトに現れる前方後円墳 出雲に現れる4隅突出型墳は
日本独自のもので間違いないでしょう。

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