古墳時代前期の東海と畿内

弥生時代の環濠集落は3世紀を境に消滅しますが
中部の濃尾平野の朝日遺跡(弥生時代中期)は規模と防御施設において日本最大級です。
更にこの地域の縄文後期の貝塚は関東の埼玉千葉に次ぐ遺跡の多さです。

濃尾平野の愛知、岐阜県の弥生時代の人口は、
先進地の北部九州や畿内より大きかったかもしれません。
これが列島の西端に位置する先進地の九州や出雲を
列島の盟主にさせなかった地政学的な力学と思います。

東海の面白いところは3世紀の方形墓の周壕が一周するタイプや
方形の一辺に突出上の祭壇を設ける形が流行したことです。
私見ではこれが発達して東海地方で前方後方墳が出来上がったと考えてます。
静岡県沼津市の辻畑古墳(前方後方墳)は230年頃と比定されていますね。

さらに前方後方墳の方墳部が3世紀に播磨の円墳と畿内で合体し、
前方後円墳が出来上がったとも推測しております。

形のコンビネーションは違いますが、
畿内の西山古墳4世紀は下段が前方後円墳、上段が前方後円墳ですね。
3世紀の畿内の纏向遺跡の搬入土器では伊勢東海産は全体の49%と最も多く、
またヤマトの記紀には后妃を輩出した中部の尾張氏が登場してますから、
畿内と中部の関係は密だったようですね。

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