騎馬民族は日本に来なかった

騎馬の高句麗が日本海を渡り日本に進入し
3世紀の古墳時代が幕明けた可能性はゼロに近いと思います。
まず出雲の四隅突出墳丘墓(3世紀頃)から馬具が出ていません。
同様に3世紀頃の畿内の巻向・ホケノにも馬具はでていません。
古墳時代は騎馬民族が畿内や出雲に侵入し興ったのではいないということですね。
馬具が現れるのは5世紀頃からです。

紀元前2世紀から3世紀まで北朝鮮の日本海側に存在した沃祖(高句麗に従順)ですが
一部が辰韓(後の新羅)へ行き倭と交流した可能性はありますね。
倭は3世紀に辰韓にたびたび進入しています。(新羅本紀)

三国魏志東沃祖伝には
暴風で流れ着いた東の先に島(たぶん倭)で言語が通じず餓死したとあります。
散発的な流民が日本で巨大な古墳を作った可能性はないでしょう。

3世紀には魏が高句麗に攻め込み
高句麗王が沃祖の地に逃げ込んだとありますが騎馬の高句麗がそのまま海を渡り
日本に侵入し巨大な古墳を作ったということではないということですね。

楽浪郡を一時支配した燕の公孫氏は238年滅びますが
日本に散発的な渡来はあったと考えられます。〔常世連など〕
一緒に遼東半島の北の烏桓〔237年滅〕も
渡来した可能性はあるでしょう。〔ヤタガラスの賀茂氏・京都の烏丸などの可能性〕
九州の邪馬台国は魏の楽浪郡に使者を送っていたから
楽浪郡を一時支配した公孫氏は出雲や畿内に向かった可能性はありますね。

285年に朝鮮半島北部や中国東北部の扶余が燕に攻められ弱体化します。
時代がずっと下って10世紀の高麗の伝承に
王子依羅〔イリ〕が鮮卑に攻められ海に逃れ倭人を平定し王となったとありますが
高麗と同系の滅んだ高句麗の権威を保つため700年もあとに捏造したのでしょう。
魏志倭人伝・広開土王碑・百済本紀・日本書紀・新羅本記のどこにも書かれていませんね。

また朝鮮半島南端部の加羅〔倭人多し〕から
3世紀末とおもわれるの大成洞遺跡の木槨墓といっしょに北方型の遺物が発見されていますが
木槨は中国の楽浪郡の文化であり騎馬の石積墓はこの地域にありませんでした。
加羅に騎馬はきておらず日本にも当然騎馬の流民はなかった考えたほうが良いでしょう。
文化は楽浪郡から加羅に流入しました。
畿内のホケノの木槨は加羅や新羅から伝わったのではないでしょうか。

AD400年(公開土王碑)に高句麗が任那(加羅)に侵入したとありますが
高句麗が加羅を支配したとは書かれていません。
彼らが海を渡り倭人を追って倭に侵入したとも書かれていません。
加羅は5世紀に衰退しますが生き残っており高句麗は加羅の村を焼き払ったり捕虜を連れて引き戻ったのでしょう。
加羅付近にいた1部族が日本の秦氏の先祖という説もあります。
海を渡って日本に来たかもしれませんね。

畿内・九州・出雲などの古墳から出る馬具は5世紀中頃からですが(1件4世紀の出土例)
4・5世紀の朝鮮半島の倭人の活動による半島人の捕虜・倭人の日本列島への里帰り・
百済系渡来人・朝鮮半島から避難民などで騎馬文化が徐々にもたらされたと考えています。

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