邪馬台国九州説

魏志倭人伝の問題個所、北部九州から『南に水行10日、陸行1か月』ですが、
魏のバイアスがかかった情報であると提起されています。(渡邊義浩氏の説)

3世紀の中国大陸は黄河流域の魏、長江流域と華南の呉、四川の蜀の三国時代ですが、
魏が金印を送ったのは蜀を挟み撃ちにできる位置にあったインド北西部のクシャーナ朝と
呉を挟み撃ちにできる位置にあったと考えられていた倭ですね。
金印を送ることは破格の対応だそうです。

ところが魏の使者が実際に倭の邪馬台国に来てみたところ
とても呉を挟み撃ちにできる位置になかった、それで後の使者が挟み撃ちできる
陸行1か月という日程に文書を改竄したというのが渡邊氏の説ですね。

本題の邪馬台国はどこにあったかですが、九州説を取らざるを得ません。
『宮室樓觀城嚴設常有人持兵守衛。』(魏志倭人伝)
宮室、楼閣、城郭があり常に人が警備しているとありますが、
九州の吉野ヶ里遺跡にすべてあります。
矢じりに刺さった人骨も発見されましたが、
福岡県でも同じような人骨が複数発見されていますね。

『其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿。』(魏志倭人伝)

2世紀の倭国の大乱の様子ですが、
九州では圧倒的な数の鉄器や銅剣が発見されていますので倭国とは九州でしょう。
銅鐸文化圏の畿内は比較的平和に生活していたのではないでしょうか。

ヤマトの3世紀頃の唐古・鍵も九州の吉野ヶ里遺跡に次ぐ弥生の環濠集落ですが
城柵跡が発見されていません。
同時期のヤマトの纏向遺跡では、畳150畳分の館と
4つの館が東西のライン上に存在した跡が発見されました。
さらに東海・北陸、関東、山陽地方の土器と高床式の建物跡が発見されましたので
九州以外で関東から南の日本列島各地のリーダーが居住していたと考えられています。
同じくヤマトの黒塚古墳(天理市)から銅鏡が34枚発見されましたが
これは邪馬台国の卑弥呼が魏から授かったとされる銅鏡100枚の一部で、
本州の各リーダーに分け与えるためにヤマトで保管してたのではないでしょうか?

以上のように3世紀に日本の核は九州と新興の畿内にあったようです。
魏に認知されていたのが九州の倭国ですが、
畿内のヤマトは外国に知られず着々と力をつけていったのでしょう。

また九州の倭国はヤマトと別物であったために
後の大和朝廷が編纂した古事記や日本書記は邪馬台国(3C)や倭の五王(5C)
をまったく取り上げなかったのもうなずけますね。

『日本國者、倭國之別種也。』(旧唐書)
邪馬台国が畿内にあったならこのような書き方はしないでしょうね。

『女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒歯國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』(魏志倭人伝)

邪馬台国の東に海を渡り千里あまり、倭種の国がある・・・ といっていますが
邪馬台国が畿内にあったなら、これは何なのでしょうか?
冒頭の『南に水行10日』は『東に水行10日』 との誤りだったという説は、
説得力がないですね。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です