空白の4世紀

3世紀後半~4世紀の畿内の遺跡や古墳の巨大化は
半島情勢を知っていた九州の部族(物部氏や天皇家など)が
祈祷中心の九州の卑弥呼ではクニが長く続かないと密かに崇神・垂仁などを畿内イリさせ、
4世紀には4道(西国・山陰・北陸・東海)を纏めさせたのではないでしょうか。
崇神時代の4道将軍は日本書紀にありますね。

複数の豪族が乱立した九州とは違い畿内は、
周辺地域と連携しながら徐々に拡大し(前方後円墳の本州での普及)、
3世紀以降は権力が安定し始め
人口爆発がはじまり中国にしられずに勢力を増していたと考えられますね。

3~4世紀の奈良盆地の三輪王朝は
崇神(みまきイリひこ)や垂仁(いくめイリひこ)ですが
九州には筑前の御牧郡(福岡県遠賀郡)・旧朝倉郡三輪町
日向の生目古墳群・生目神社(宮崎県)
があり九州から入ってきた可能性が極めて高いですね。

畿内土着の諸部族や先発の九州勢力の物部氏は
後発の九州勢力が来る前に銅鐸を土に埋めさせ、
平和裏に新しい渡来部族を受け入れようとしたのではないでしょうか。
新しい部族も畿内で銅鏡(魏が邪馬台国の卑弥呼に100枚渡した)
を配り平和を維持しようとしたと考えられます。

祭祀的な色彩の強い畿内の纒向遺跡は
九州の卑弥呼が畿内にくることも想定していたのでしょうか?
土器や遺物は九州産から関東産までで東海産が最も多く
北陸山陰産 河内産 吉備産と続き各地のリーダーが
高床式の建物に居住していたようです。
日本統一に向けた動きが始まっていたのでしょう。
なお一般的な住居跡は発見されていません。

纒向遺跡の最盛期は3世紀末~4世紀前半で
4世紀後半にはまったく輝きを失います。
そのあと5世紀に巨大な前方後円墳が出現しますが
新たな勢力〔応神?〕が畿内に入り従来の勢力と合体したとも考えられていますね。

5世紀以前に畿内へ渡来した九州勢力を要約しますと、
物部氏・神武・崇神・垂仁・応神?となります。

ところで出雲の大物主を祭る奈良盆地の纒向付近は出雲庄と呼ばれていました。
幾内を中心とした銅鐸(紀元前2世紀~紀元後2世紀)は出雲でも出土しています。
3世紀の崇神の前頃までは出雲勢力(銅鐸)が畿内まであったと考えられます。
3・4世紀は九州から畿内にかけての西日本が
畿内を中心に一体化を始めたのではないでしょうか。(≒九州と大和の並立)

一方、九州倭国は邪馬台国滅亡後
3世紀後半-4世紀前半まで男王が複数立つなど混乱しました。

4世紀の半島は北西部の中国の出先機関が高句麗に滅ぼされ
また無政府地帯であった半島南部に新羅・百済が建国され
3国の抗争が激化し始める時代です。
中国は五胡十六国の戦国時代にあたります。

日本書紀には任那のソナカシチが朝貢する
大加羅(任那)の王子ツヌガアラヒト(朝鮮南部にいた倭人の末裔?)
が崇神天皇に会うとあります。
4世紀を境に半島南岸部の任那で北部九州産の遺物が減り畿内産が急増しますね。
百済が九州の倭国と結びいたために、任那はヤマトと結びついたのかもしれませんね。

半島南東部の百済は九州の倭国に使者を送っていますね。
369年製造の百済が送った七支刀に倭王旨〔ムネ〕とありますが
九州北部の宗像の宗〔ムナ〕のことでしょう。

また新羅の王子アメノヒコボが垂仁天皇に贈り物をするとあります。
小国分裂の半無政府状態の任那(倭人多数)や新しい国の新羅が
あたらしい畿内勢力と同盟しようと動いていたのではないでしょうか。

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