天皇家の出自

天皇家の祖先であるアマテラス大御神などの天津神がいる高天原から探ってみましょう。
日本神話の高天原から神様が降り立った地は日向・新羅・出雲しかありませんから
これらの地に等距離で行ける地は北部九州しかないでしょう。

”新唐書”
天皇の姓は阿毎で、筑紫に居ると書かれています。

其王姓阿每氏 自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世 皆以 尊 爲號 居築紫城 彥瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀 仲哀死 以開化曾孫女神功爲王 次應神 次仁德 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略 次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閒 次宣化 次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極

新羅は半島の南東部で混在していた各民族が
北部の中国領楽浪郡や高句麗の侵入により追いやられた場所で、
4Cの新羅建国前にも不安定な状況であったために、
早くから対岸の出雲と交流があったと考えられます。

”後漢書辰韓伝”
辰韓(新羅の前身)の民は秦の苦役より逃亡したものと書かれています。
辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。

”三国魏書辰韓伝”
言語は馬韓(百済の前身)と違うと書いていますね。
其言語不與馬韓同

”新羅王家(昔家)の神話”
倭国の東北一千里のタバナ国(丹波国か?)で、王妃が卵を産み落とした。
王は不詳であるとして、卵を宝の箱に詰めて海に流した。
箱は伽耶を経て辰韓に流れ着いた。

”新羅王家(朴家)の神話”
倭人が腰にヒョウタンをつけて海を渡り、新羅に来て、瓠公(ホコ)と呼ばれた。
彼は、初代王の赫居世(朴氏祖)~四代王の昔脱解(昔氏)まで、
建国の重臣として活躍した。

勾玉は新羅から大量に出土していますが(5C)、他は任那、百済です。
勾玉の原料のヒスイは新潟県糸魚川産で、
大国主が地元の娘と婚姻した言い伝えが残っていますから
出雲から新羅に運ばれた可能性が高いですね。
出雲は見返りに製鉄技術などを手に入れたと考えられますね。

出雲は戦乱の多かった九州や後発のヤマトより早く本州で影響力を拡大したため、
後にヤマトに国を譲る状況が起き(崇神天皇のあと5C頃では?)、
日本書記に神話として記載されたのでしょう。

ところで平安時代まで宮内庁には韓神社と園神社があり
宮中で祭祀を行っていました。
韓神社は大国主、御子神、韓神、曾冨理神、白日神、聖神、
園神社は大物主を祭神としており、出雲系の神が祭られていました。

これは出雲が国をヤマトに譲る代わりに出雲の神様だけは残した
国譲り時の契約が残った形ですが、なぜ韓神なのでしょうか?
なぜ平安以降消えてしまったのでしょうか?

神道と結びついた天皇家の伝統は新嘗祭(収穫祭)などの祭祀が主ですが
皇居には水田もあり天皇陛下が毎年稲を刈られています。
また天皇家の多く人が自然科学系の学問に習熟されています。
これらは定住型稲作民の気質ではないでしょうか。
天皇家は狩猟(ツングース系)の儀式や馬に関する伝統をもっていません。

以上から任那にいた倭人である天皇家がヤマトに渡ったとみていましたが
任那では4世紀を境にヤマト産の遺物が急増します。
またツヌガノアラヒトが崇神時代(3世紀頃)に任那からヤマトに来ています。
3世紀には畿内に前方後円墳が出現し、
2世紀には倭国に大乱がありましたから
天皇家の渡来が朝鮮半島からもしあったとすれば、かなり前ですね。

初代神武天皇のヤマト入りは日向が起点ですので、
任那からヤマトに入った可能性は低いですね。
現在、天皇が行幸等する場合は国外であっても
三種の神器である八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)携帯することから、
伝統的に皇室は日本オリジナルですね。

筑紫の風土紀や記記にはその出自が全く書かれていないので
新唐書にあるように出自は九州でしかも非主力勢力で、
かなり早い時期にヤマトに入ったのでしょう。
後に九州の本家の倭国のほうが外国に知られるようになったので
その出自がうやむやになっていると推測しています。

また桓武天皇の母の高野新笠の父方が百済武寧王の子孫とのことですが、
200年以上時間差があり日本に帰化して6代もたっていますので、
高野新笠は日本人と言えるでしょう。

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