松野連家系図を解く

⓵外国に始めて承認された九州で共立された王、
卑弥呼・タイヨ『魏志倭人伝』は記載ありません。
熊本の姫氏と関係ないのではないでしょうか。 縄文系のシャーマンの可能性もありますね。

⓶姫氏自体にに漢字による記録が全く残っていません。
呉から散発的に日本列島に流れ着いたのは呉に直結する氏族ではなく、
呉の支配を受けていた文字をもたない少数民族だったか
名もない家来か一般人だったのではないでしょうか。
日本に流れ着いて呉直系はすぐ滅びた可能性もありますね。
その話を伝え聞いた姫氏が
箔ずけのためにその話を盗用したとも考えられます。

⓷百済製造の7支刀に刻まれている
4世紀の倭王旨(北部九州の胸形=宗像)がでてきません。
姫氏は北部九州と連携し権力を取っていなかったのではないでしょうか。
高良神社に倭王旨の遺品があるという意見もありますが
玉垂命と倭王旨では音がぜんぜん違いますね。

⓷新唐書にある天皇家阿毎がなく、阿米などと書かれていますが
阿毎=阿米とすれば年代が大きくずれていますね。

⓷北部九州に6世紀頃いた日本書紀の磐井(新羅と交流)が出てきません。
ここでも姫氏は北部九州と連携し権力を取っていないことがわかります。

⓸その一方で宋書倭国伝にある5世紀の倭の五王は列挙されています。
倭の5王の珍(メズラ)は
3世紀に既にあった北部九州の末羅国(マツラ)の末裔の可能性が高く、
〔北部九州・朝鮮南岸に同様の地名が残っている〕
その父である讃も当然北部九州であり
熊本付近の姫氏と縁婚があったとは証明されていませんね。

⓹また倭の5王の済・興は宮崎や大分に類する地名が多く見られますが、
熊本付近の姫氏と宮崎・大分の関係が明らかになっていません。

[結論]
8世紀に書かれた松野連家家系図は寄せ集め集で
姫氏が九州を統一したということは確認できていませんし、
九州に統一王朝があったという事実も確認できません。
事実は九州各地の豪族が独自に諸外国と連携していたことですね。

*倭奴国[2世紀以前](北部九州)-魏
*卑弥呼・タイヨ[3世紀・4世紀]〔共立王〕(九州北半分)-魏
*倭王旨(北部九州)[4世紀]-百済
*磐井(北部九州)[6世紀]-新羅
*讃(畿内に拠点?)[5世紀]・珍(北九州沿岸)[5世紀]・
*済(日向)[5世紀]・興(大分)[5世紀]・武(広島に遠征?)[5世紀]- 宋
*阿毎(北九州)-唐[7C]・隋

卑弥呼は複数の王に共立された九州北半分を代表する王で
統一されたクニの王ではないですね。
卑弥呼が姫氏は根拠に欠けます。
また北部九州にありながら筑紫の風土紀にまったくでてこない
阿毎〔天皇家?〕は
宮崎付近[日向]から北部九州に移動して土着していたのでしょうか。
8世紀に寄せ集められたこの文献は
個々の情報は調査する価値があるかもしれませんが
姫氏全体の系図としては
松野連家の正当性に箔をつけようとする捏造書に近いものではないでしょうか。

”松野連家家系図”

★夫差(呉王)-公子忌(考昭天皇3年来朝住火国山門)-順(居于委奴)-(これから、直系の「第二系図」と、傍系のイ土郡大野住の「第1系図」に分かれる)

★第2系図
恵(旧字)弓-阿岐-布怒之-玖賀-
宇[門の中が下](漢宣帝時遣使地節2年)-阿米-
熊鹿文(姓姫氏称卑弥子後漢光武中元2年正月私通漢土印綬僭称委奴国王-
(この後第2系図直系は)厚鹿文ー市乾鹿文(と続き)-
(妹の?)市鹿文(壱[不詳文字]、壹與かも?)。

★第2系図
市鹿文の弟?の、宇也鹿文(からまた連続し)-
垂子(この傍系に伊聲耆の名前がある)-
騰-讃-珍-済-興-武-
哲(倭国王)-満-牛慈(金刺宮御宇服降為夜須評督)-
長提(小治田朝評督筑紫国夜須郡松峡野住)-大野-廣石-
津萬侶(甲午籍[?]松野連姓。

★第1系図
阿弓ー宇[門の中が下](第2系図にあった人と同名)(後漢光武帝中元2年貢献使人自称大夫賜以印綬)-己婁伊加也ー
玖志加也(加志也 永初元年十月貢漢)-
鷲ー刀良(卑弥呼姫氏也宣帝時遣使礼漢本朝崇神帝時)-
花鹿文ー取石鹿文(川上梟師)(ここで途切れている)
刀良の次からの傍系に難升米や掖邪狗が書かれている。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です