韓国南西部の前方後円墳、南九州と関連か

韓国南西部の栄山江流域に少なくとも12基の前方後円墳が確認されています。
その中の光州月桂洞1号墳・2号墳と光州明花洞古墳は、
方墳部が大きく高さもあり、三角錐のような形で頂上付近がとがっています。
段もありません。
宮崎県の古墳の形と酷使していると指摘されていますね。

この写真は光州月桂洞2号墳、見出し写真は光州月桂洞1号墳です。Tomb_Two_of_Gwangju_Wolgye-dong_Janggobun-1

下記は古賀達也氏が同型ではないかと指摘している宮崎県を中心とした
前方後円墳です。

宮崎県西都市松本塚古墳 ー 墳長104m、6世紀初頭
http://www13.atpages.jp/ootama/page124.html
[古墳とかアレ、4号館  より]

img868

宮崎県水神塚古墳 - 墳長49.4m、6世紀
http://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-entry-206.html
[古墳のお部屋ブログ館 より]

gionbaru56_1

他宮崎県の方墳部が三角錐のような形の前方後円墳。

百足塚古墳 墳長76.4m
機織塚古墳 墳長49.6m
新田原52号墳 墳長54.8m
新田原68号墳 墳長60.4m
大久保塚古墳 墳長84.0m

写真は埼玉県の稲荷山古墳(120m、5C後半)ですが、
2段構造で方墳部の頂上が平らですね。

375px-Inariyama_Kofun

ところで宮崎県美里町南郷地区には百済王伝説があります。
神門(みかど)神社の『神門神社縁起』によれば、
百済の大乱で禎嘉王(ていかおう)と福地王は、日本へわたり、
756年(天平勝宝8年)に安芸国(現在の広島県)の厳島あたりに辿り着き、
追手から逃れるため筑紫に向かい嵐にあって日向に漂着したとあります。
しかし百済が滅亡したのは660年で、
復興運動が完全に潰されたのが663年ですので(倭国・百済連合が
唐・新羅連合に敗北した白村江の戦い)、約100年のギャップがあります。
私はこれは畿内中心主義の大和朝廷による情報操作だと考えています。

3世紀の九州邪馬台国、5世紀の倭の五王(九州に地名が多く残る)が
記紀に全く取り上げられていない事と同様、
九州の豪族が朝鮮半島南部に強い影響力を持っていた事実を消滅したのではないでしょうか。
百済の王族は初めからゆかりの地であった日向を目指していたと思いますね。
韓国の南西部の前方後円墳の形が日向(宮崎県)のそれと似ているのは、
日向の豪族が韓国の南西部に支配的な地域を持っていたのでしょう。

日本書記によると
512年大友金村任那から百済に任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を
割譲したとありますが、
この地域が韓国の南西部で前方後円墳が多数発見されている栄山江地域ではないかとの説が
有力ですね。

20150227-03

話を韓国の前方後円墳に戻しますが
外観による形状が南九州[日向]のものと酷使している古墳は、
光州月桂洞1号墳・2号墳と光州明花洞古墳など3基、
海南龍頭里古墳・咸平新徳1号墳・海南長鼓山古墳は石室の内壁には
北部九州・有明海沿岸部の古墳と概ね同じ工法でベンガラが塗られています。
霊岩チャラボン古墳は百済系の石室ですね。
光州明花洞古墳で
畿内に多い円筒埴輪・朝顔系埴輪に類似した土製品が出土しています。

これらから韓国南西部には北部九州、南部九州、畿内の影響がみられ
列島の各地域から豪族が派遣され、韓国南西部を支配していたと考えられます。

栄山江の前方後円墳の外環の方形部の三角錐形については、
日本の前方後円墳を模して朝鮮半島人が造ったため
本家の日本の形と違いが出たという説も否定できません。
写真は韓国東南部慶州(旧新羅地域)の双円墳、皇南大塚(5C、120m)です。
頂上が平ではなく、この点は栄山江の前方後円墳と共通していますね。

800px-Daeneungwon-Gyeongju-Korea-2006-05

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