倭の五王讃(5世紀)の出自 地名からひも解く

◆讃〔=サ〕

讃の地名は讃岐(香川県)・讃良郡(大阪府寝屋川市付近)がありますが、
珍、済、興に関する地名が九州で非常に多くみられますので位置関係がしっくりきません。
(武は広島県で見られます。)
讃の弟の珍は北部九州で間違いないようですので、この辺から探りましょう。

珍は音読みでMEZURAで、
容易に魏志倭人伝に出てくる3世紀の末廬(MATSURO)国=がでできます。
佐賀県唐津市付近ですので、珍がこの付近にゆかりがあると仮定し、
兄の讃の拠点を探しましょう。

3世紀の末廬国の西隣には伊都国(糸島半島付近)があります。
伊都国には大率という高官が置かれ諸国を監視したようですが、
国際港の唐津の掌握のため、山がちで希薄な人口であるこの地が選ばれたと考えられます。
北部九州で最も人口が多かった国は伊都国の西隣の奴国(福岡平野付近)で、

後漢書東夷伝には次のように記載されています。

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見『後漢書』東夷列傳第七十五建武中元二年(57年)、

訳文:倭奴国は貢物を奉じて朝賀した(57年)。使人は自ら大夫と称した。倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。また、安帝の永初元年(107年)に倭国王は帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見を請い願った。

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下記は魏志倭人伝に書かれている3世紀前半頃の奴国の様子です。

東南至奴國百里 官曰兜馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸

訳文:東南の奴国まで百里ある。そこの長官を兕馬觚(じまこ、じばこ)といい、
副官は卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸がある。

奴国のあった福岡平野には早良(さわら)という地名が残っており、
この地域の吉竹高木遺跡からは弥生時代中期頃の鏡・剣・ヒスイ製の玉が発見されています。
天皇家の3種の神器を髣髴させますね。
この早良(さはら)の『さ』をとって讃と名乗ったのではないでしょうか。

これで日本書記・古事記が
宋書倭国伝にある5世紀の倭の五王を全く取り上げなかった理由がはっきりしましたね。
畿内から日本が始まったとしたい大和朝廷の前に、
九州の王たちが外国と行き来していたわけですから。

 

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