君が代は阿曇の君の歌

歌詞は10世紀の古今和歌集の短歌、曲は1880年奥好義と林廣守が作成。
福岡県志賀島にある志賀海神社の山誉め祭りの神樂歌に下記のようにあります。

君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや
うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>に
くわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ
あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな

以下WIKIPEDIAより

糸島・博多湾一帯には、千代の松原の「千代」、伊都国の王墓とされる平原遺跡の近隣に細石神社の「さざれ石」、細石神社の南側には「井原鑓溝遺跡」や「井原山」など地元住民が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また桜谷神社には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っています。

志賀海神社の祭神、綿積見三神は阿曇氏の租神で、社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とあります。石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童記』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社の祭神であったということになります。(引用終わり)

君が代は北部九州の海人、阿曇氏を讃える歌だったということですね。
4・5世紀まで日本列島で最も吸引力があった地域は
北部九州であったのは間違いないようです。

4世紀頃の三韓征伐は日本書記によると、応神天皇を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り
朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた、
新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという とあります。
新羅は特に高句麗に強い圧迫を受け、倭と戦う余裕がなかったようです。
下記は5世紀の半島情勢ですが、新羅と百済の劣勢が見て取れます。
逆に高句麗は倭と結び、新羅・百済を挟み撃ちにし朝鮮半島を統一したかったために
倭に朝貢を約したと考えられますね。

History_of_Korea_(Goguryeo)_476_jp

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