イベリア半島を追われたユダヤ人はオランダに

15世紀後半にイベリア半島のスペイン・ポルトガルで始まった
ユダヤ人への大弾圧で、
スペイン・ハプスブルクの領地であったオランダに
大量のユダヤ人が流入しました。
当時、オランダにはプロテスタントのルター派が広まっており、
狂信的カトリックの国と違う自由な風土で
17世紀のオランダではユダヤ人の商才はいかんなく発揮されます。


黄金の世紀と呼ばれたスペイン・ハプスブルク朝のころにおけるスペイン帝国
(赤はスペイン王国、青はポルトガル王国)の領土、植民地、属領(1580年 – 1640年)

1602年にはオランダでオランダ東インド会社(WIKIPEDIA)が設立されます。
世界初の株式会社といわれていますが、
商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など
喜望峰以東(=アフリカ最南端より東のアジア)における諸種の特権を与えられた
勅許会社でした。
帝国主義の先駆けでありアジアでの交易や植民に従事し、
一大海上帝国を築きました。

オランダの海上帝国

オランダ東インド会社は株の4分の1をユダヤ人が所有し
アムステルダムは当時新エルサレムと呼ばれていました。(「ユダヤを知る事典」P74)。
最大の株主はIsaac le Maire(百科事典ブリタニカ)で
名前から判断するとユダヤ人と言われています。
Israel(イスラエル)とIsaac le Maireを比べて見てください。

オランダ東インド会社の旗

北米ニューヨーク(ニューアムステルダム)の開拓では
オランダ東インド会社に雇われた英人ヘンリー・ハドソンが
1609年にニューヨークに到達しました。
当時、アメリカ大陸の全容は未知であり、
アジアに通じる北西航路があると信じられていたため、
東インド会社が探検隊を送ったものでした。

ハドソンはハドソン川をさかのぼり、
流域一帯をオランダ領ニューネーデルラント(ニーウネーデルラント)と宣言しました。
ハドソン川の名はハドソンの名にちなむものです。
その後、オランダ西インド会社の管轄に移され、
ビーバーなどの毛皮が取れるハドソン川流域の植民が行われました。

1626年頃にはハドソン川下流のマンハッタン島南端にオランダの植民拠点が建設され、
ニューアムステルダム(ニーウアムステルダム)と命名されました。
ニューネーデルラント植民地の主邑となったニューアムステルダムは
1653年に正式に市の資格を与えられています。
当時は運河がはりめぐらされた土地であり、
また侵入者に備えて防壁が随所に築かれました(ウォール街)。

ニューアムステルダムの建設には
改宗したユダヤ系のオランダ人も含まれていました。
二人の大統領を出したルーズヴェルト家は
ニューアムステルダム植民地以来のオランダ系の名門であり、
名前を見れば改宗ユダヤ人の家系である可能性が高いです。
オランダ系に特徴的な名前としては、ダイクで終わる名前(ソーンダイクなど)、
ダムで終わる名前(ロッダムなど)、
ヴェルト(フェルド)で終わる名前(ルーズヴェルト、ラムズフェルドなど)
があります。
(出典-ニューヨークは、オランダ系ユダヤ人によって)

フランクリン・ルーズベルト

ニューアムステルダムにはブラジルからユダヤ人(24名)も入植しています(1654年)。
これはポルトガル領のブラジルがユダヤ人を弾圧をしたため
1630年当時、ブラジル北西部のレシフェ近辺を支配していた
オランダ領に逃げこみ、
1652年に英蘭戦争でオランダがイギリスに敗北し
北西部ブラジルが再びポルトガル領になった後、
ユダヤ弾圧が起こったためです。
(出典ーブラジル余話)

ニューアムステルダムは1664年に英国支配化になり、
後にヨーク公に因んでニューヨークと改称されました。

またオランダ東インド会社(VOC)の元で行った
アベル・ヤンスゾーン・タスマン
(Abel Janszoon Tasman、1603年 – 1659年10月10日 オランダ人探検家)は
1643年に現在のオーストラリアタスマニア島とニュージーランド、
フィジーへ到達した最初のヨーロッパ人となりました。

タスマンの航路

1600年3月にはオランダ商船のリーフデ号が豊後に漂着します。
航海長のウィリアム=アダムズ(イギリス人)と共にきた
ヤン=ヨーステン(東京八重洲の語源)が来日した最初のオランダ人です。
オランダとの貿易は1641年徳川幕府が鎖国をした後も
長崎の出島において幕末まで続くことになります。

東南アジアのオランダ領(17世紀)

(出典-外国にからむ事件と当時の国際情勢)

1609年、北ヨーロッパで最初の公立銀行であるアムステルダム銀行が
オランダのアムステルダムで設立されました。
ヴェネツィアのリアルト銀行を模しましたが、
731人の出資者のなかにはユダヤ人が25人いましたので、
彼らからヴェネツィア(新生ローマ帝国とイベリア半島からユダヤ人が多数移住)
の金融業の情報が伝わったと考えられます。
(出典-アムステルダム銀行)

1672年にはオランダのアムステルダムの
セファルディーム共同体(イベリア半島経由のユダヤ人共同体)は
2500~3000人規模に達していましたが(「スペインのユダヤ人」関哲行)
一部のユダヤ人は隣国のイギリスに既に移動していました。

1642年イギリスで始まったピューリタン革命では
1653年に大きな軍事的功績をおさめた
オリバー・クロムウェルが担ぎ上げられる形で護国卿となり
独裁体制が敷かれました。
彼はユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れ、
キリストが戻ってきて1000年王国が始まると信じ、
1655年オランダのアムステルダムから
ユダヤ教指導者マナセ・ベン・イスラエルを呼びました。
ユダヤ人のイギリス移住は
イギリスが1290年にユダヤ人を追放してから365年目のことです。

オリバー・クロムウェル(1599-1658)

ところでオランダはスペインのハプスブルク家から独立運動を、
1568年から1648年まで80年間つづけていました。
そして独立後間もなく1645年に第一次英蘭戦争が始まりました。
その後オランダはイギリスとの3度の戦争(1784年に終わる)で敗北を繰り返し
国力が逆転される過程でイギリスで起こったのが
1688年の名誉革命です。

1688年、イングランドのジェームズ2世の娘メアリー2世と
その夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世在職:1672年 – 1702年)が
イングランド王位に即位しました。

イングランドとオランダの貿易が増加し
オランダのユダヤ人がロンドンに投資を始めました。
ユダヤ人のロペス・ソアッソ一族は
ウィレム3世に英国出兵の経費として200万グルデンを前貸ししました。
大勢のユダヤ人金融業者がロンドンに移り住み
ウィリアム3世の時代に金融市場が発達しました。
名誉革命を通じて、国際金融の中心は、アムステルダムからロンドンに移りました。
(出典-人権115~ユダヤ人の自由と権利(続))

1810年にはオランダはナポレオンのフランスに併合され
イギリスに海外植民地の大部分を奪われました。
1815年のウイーン会議でオランダは復活しますが保有する海外領土は、
オランダ領東インド(現インドネシア)、
オランダ領ギアナ(現スリナム。西側にイギリス領ギアナが出来て縮小した)と、
商館である日本の出島だけとなりました。

オランダはユダヤ人には寛容でしたが英蘭戦争で疲弊し、
イギリスに海上覇権を奪われる過程の中で、
イギリスで起こった革命でユダヤ人金融がロンドンに移りました。
創世記12章3節の解釈の1つである『ユダヤを祝福するものは祝福される』
という一言では片づけられない時代の流れがここにも存在しています。

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